例えば、休みの日が来たら「勉強しよう」とか「ジョギングとかして体を鍛えよう」とか思っていても、実際に休みの日になったらスマホでゲームをしたりyoutubeを見たりして現実逃避をしてしまうこと。
他の人たちにも身に覚えがあると思うし、俺が子どもの頃からの永遠の悩みでもある。
いい加減この問題を打破したい、この問題と30年以上も付き合っているのは疲れるし馬鹿げている、一体どうすればいいんだ?
素直に考えると、結局「勉強はしたくない」し、「体は鍛えたくない」のが本音なんだと思う。面倒くさいから。
生涯努力したくない、めちゃくちゃ豪華な生活は送れなくていい、けどホームレスみたいな貧窮な生活も送りたくない、つまり平々凡々な生活を送りたい、というか晴耕雨読みたいな生活を送って、死ぬときがきたら死ねばいい。
そんなことを考えている俺は傲慢なのか?最高じゃないか。
平々凡々な生活ってなんだろう?
ホームレスみたいな貧窮な生活をしないために勉強は避けられないし、
体を鍛えなければ歳を取るにつれて手足が動かなくなって介護が必要な体になってしまう。
つまり、平々凡々な生活を送るためには勉強したり体を鍛える必要がある。
もしそこまで理解していてもなお、勉強したり体を鍛えることをしなかったら?
それはつまり平々凡々な生活すらも送れなくても良いということになる。
かといってホームレスみたいな貧窮な生活も送りたくない。
これはわがままなのか?
ホームレスみたいな貧窮な生活を送るぐらいなら死んだ方がマシなのか?
努力については"はじめの一歩"の鴨川の言葉が今でも名言として語り継がれている気がする。
「努力した者が全て報われるとは限らん。しかし、成功した者は皆すべからく努力しておる。」
これを聞いても努力ができないならその先に待っているのは飢餓と孤独が織りなす緩やかな死だけだろう。
ゲームをしていたり、youtubeとかでいろんな動画を見ていても心は満たされない。
「こんなことをやっていたらダメなのに…」
ダメだとわかっていても立ち上がることができない。
ゲームをしていたり、youtubeとかでいろんな動画を見ていても不安は消えない。
「勉強をしていない、努力もしていない、なのにこんなにだらけていて、俺の未来はどうなってしまうんだろう…」
冷静に見て「いや努力しろよ」と思える状態なのに立ち上がることができない。
努力について他にもこんな言葉がある。
「努力は夢中に勝てない。努力をしている時点で向いてないってこと。」
いっそ努力に対して考え方を変えてみるのも良いかもしれない。
よく東大や京大のような有名大学に行った人たちに「どうやって勉強したの?」と聞くと、「勉強をゲーム感覚でやっていた」と言う人たちも多いという。
ゲーム感覚で楽しく勉強、楽しく体を鍛えることができたら苦痛もないだろう。
ネットで調べると上記の『努力は夢中に〜』という言葉は「呪詛だ、好きじゃない。」という人のペーシが最初に出てきて「努力も苦手で、好きなことも見つかってない人を殺す言葉」みたいなニュアンスで書かれている。
ただ個人的に思う、好きなことがないなら探せば良いのではないか?と。
挙げていけばキリがないが、俺はいろんなジャンルの趣味に手を出してきた。
多趣味は無趣味と言われることもあるが、自分が一番合っている趣味はなんだろう?とひたすら探していた時期がある。
人間は不思議なもので、世間ですごい人気なことが自分には合わなくて、逆にそんなに世間で注目を浴びていないものが自分に合っていたり、まさに十人十色だ。
好きなことがないのは、まだ好きなことに出会えていないだけ、という可能性もある。
はたして好きなことに出会うための行動はしたのか?
いくら努力が苦手な人も、好きなことを夢中でやっている間は苦手じゃないと思う。
話が少しそれたけど、ここまでの話をまとめるならば
・ホームレスみたいな貧窮な生活を送りたくないなら勉強や体を鍛える等の努力をしよう
・やらなければいけない嫌なこと(勉強や体を鍛える等)をゲーム感覚でやってみよう
明日からはじめたら永遠にはじまらない。
今日からはじめよう。
今日がんばり始めた者にのみ明日が来るんだよ…