温泉に行く目的

温泉は好きだ。

20代の頃に一人でドライブしてた時の目的地が山奥にある硫黄の温泉で、そこの温泉に入ったことを皮切りにいろんな温泉に入って、アラフォーになるまでに50ヵ所の温泉を制覇したと思う。

 

その時の温泉の目的は色々とあった。

気持ちよさ、癒し、気分転換、話題性、知的探究心、など。

それぐらい俺にとって温泉は魅力的な存在なのだ。

 

だけど今はどうだろう?

俺が今温泉に求めているもの。目的。

仕事で足が疲れて、その足の疲労を取るため。

気持ちよさ?癒し?気分転換?

そんなものは今一切求めていない。

これ以上足が痛くなったら仕事に支障が出る可能性が高いから、その可能性を低くするために温泉に行く、

つまりは、仕事のために温泉に行っているのだ。

もはや末期だと思う。

 

俺は今まで純粋に温泉が好きだったのに、

もはや今では仕事のために利用していて、

昔みたいに温泉を楽しんでいなくて、

ただ明日の仕事のために少しでも体が回復していることを祈りながら温泉に浸かっているだけで、

 

もちろん仕事は本来疲れるものかもしれないけど、

仕事して得た金で、仕事で疲れた体を癒すってもうそれ、非効率的すぎるだろ。

別に仕事して疲れた体を癒すために働いているわけじゃないわ、そのサイクル意味不明だわ。

 

どうでもいいけどジムも同じことが言える。

ジムで体鍛えれば健康的なのはわかる。

ただもしジムがストレスの捌け口になっているのだとしたら、

そもそものストレスの原因を探るべきだと思う。

その原因が解決できないようなら仕方ないと思うけど。

別にジムが無駄だと思っているのではなく、

仕事を頑張るためにジムに行っているならそれはもう末期で、働くためにジムに行っているような感じならやめた方がいいだろうし。

 

まぁ一番は温泉に行く必要がなくなるぐらいに体が仕事に慣れることなんだろうけど、

そんなに体が丈夫なら今こんなに苦労してねぇ。

 

 

あーあ。

 

ジム行こうかなぁ。

向いている人、向いていない人

給料が安いと"=誰でもできる仕事"というイメージがつきやすい。

給料が安い仕事の1つに介護がある。

じゃあ介護は誰でもできる仕事なのか?と言われれば、実際はそうでもない。

 

知り合いで大人しい人がいて、

具体的に言えばその人は大きな声が出せない人で、

仕事を探している時期に頑張ってハローワークの介護の講習を受け、卒業をして、介護の職場の面接に行って言われた言葉が、

「ご年配の方に大きな声を出さないといけないケースがあるから、あなたはちょっと…」

と断られたことがあったらしい。

やはり年配にもなれば耳が遠い人だっているだろうから介護にとって声の大きさは重要な要素ではあるんだろうけど、

いずれにしてもその知り合いは絶対に介護関係の仕事に就職することはできなかった。

 

ではそんな知り合いにはたして天職は存在するのかといえば、あるわけで。

小さい頃からプラモデル等を作るのが好きだったからか、彼は今でも工場で働いている。

そして彼は工場以外で働ける気がしないとも語った。

俺も学生の頃に工場で短期のアルバイトをしたことがあったけど、無理だと思った。

俺には誰とも話しない工場よりも、誰かとお話しができる接客業の方が楽しいと思った。

事実、俺は俺で接客業に10年以上従事しているし、

その知り合いも工場勤務に20年以上従事している。

 

また、さらに別の知り合いはマネジメント(管理)能力が全くない。

(社会では従業員の管理をマネジメントと言うことが多いけど、使い方が間違っていなければこれから言う話もマネジメント能力だと思う)

その知り合いは料理が得意だけど、逆に言えば料理以外は全くダメ。

その得意な料理の食材の賞味期限切れや消費期限切れをしょっちゅう起こす。

そしてそれ以外の"やるべき事(料理以外の家事(掃除・洗濯・整理整頓・等)・お金の管理・自身の体の管理・学習能力・等)"も全くできない。

でも料理はできる。当然俺以上に。

 

別に「向いていないことを少しでもできるように(向いているように)頑張ろう、やってみないと自分に向いているかどうかなんてわからないから」とは言わない。

なぜなら、向いていないことはどんなに頑張っても向いていないからで、その理由は上記で知り合いを例に語った。

向いていないことはどんなに頑張って無理だし、それでも頑張る間は下手したら鬱病になるほどのストレスだということを俺自身が身をもって知っている。

 

例えば、ずっと頑張っている従業員が100人いる会社があったとして、その100人が全員会社に向いているかと言われれば、そんなことはないはず。

もし従業員全員がその会社に向いているのだとしたら、その会社の人事部(もしくは面接担当)の審美眼がすごいのか、最高の従業員の育て方をして全員を仕事に向いている人間にできるすげぇ人がいるのかのどっちかだと思う。

いずれにしても、そんな事はほとんどの会社じゃありえないから、会社の仕事の中でも向いていない所は別の人に任せて、自分が向いている所を誰よりも頑張って会社に貢献するのが本来のベストな形だとも思う。

 

何が言いたいかというと、会社だろうがプライベートだろうが、他人に向いていない事を強要してはいけない。

なぜなら、その後ちゃんと歯車が回るかといえばそんなことはありえないからだ。

 

歯車の形はどの人間も違うんだから、

相手の歯車の形をしっかり把握して、

お互いの短所をお互いの長所で補い合ってはじめて歯車が回るのである。

 

きっとね。

岩手のコロナ

自分も岩手在住です。

7/29の2人の第一号感染を皮切りに現在4人出ているけど、

ずーーーっと今まで0人だったのにいきなり4人???

2人目(宮古)と3人目(矢巾)は一緒に飲んで感染したみたいだけど、

1人目(盛岡)と2人目(宮古)と4人目(北上)は全くの他人らしいから、

つまりは今までずーっとPCR検査しないままコロナ持って暮らしてたってこと?

そんな人たちが第一号になりたくなくて、村八分に怯えて暮らしていたならそれはずっと0人だった弊害でしょ。

 

達増岩手県知事は「"第一号"になったとしても県はその人のことを責めません」って言ってるけど、

実際は岩手の感染者の会社にたくさん中傷の電話やお問い合わせがきているみたいだし、

小学校で県外(特に東京)から引っ越してきた児童と関わったら休めとか言う親もいるし。

いつまで休ませるつもりなんだか。

 

岩手県民のほとんどは、コロナの感染が怖いというよりも、

コロナの感染による村八分が怖いんだと思う。

 

ずっと感染者が0人だったことを誇ってはいけない。

下手したらどの県よりもメンタルが弱い。

 

でもその一方で平気でマスクしないで出歩いている人も、イートインしている人もいる。

それも気にくわない。

「愛」と「エゴ」の違い

世紀末さんが前回の日記で紹介した4コマの時に

「私も考えまくるので…愛とエゴの違いとか…」

と言っていたので、それも気になっていた。

 

ただ、これに関しては単純で、

愛は行為をする側で、エゴは行為をされている側が持つ感情だと思う。

 

人には、自分が好きでもない人から色々と愛されても迷惑だと思う時がある。

そして人は好きになるとその人のために色々したいと思うようになる。

仮に相手が「いや、それはしなくていいよ、大丈夫…」って本気で思って言ってても、自分がしなければ自分の気持ちが収まらない、これはエゴだと思う。

 

相手が自分の行為に本当に喜んでくれる時はどんな時か?

・相手も自分のことが好きな時

・相手が自分の行為を純粋に受け入れた時

・相手が自分の行為を否定した時に、自分が相手の否定を受け入れた時

それ以外はエゴだと思う、残念だけど。

「好き」と「依存」の違い

イラストレーターの世紀末さんのブログを読んでいたら表題をテーマにした4コマがあった。

(4コマは転載不可なので割愛します)

 

世紀末さんがいつもお願いしている理容師さんが、

「てか最近よく考えることあってさ、好きと依存の違い。」

と言ってた4コマなんだけど、

それを見た俺は違和感を感じた。

そもそも「好き」と「依存」は別物なんじゃないか?と。

 

昔知り合いに「パートナーは好きじゃないけど、私がパートナーに依存している」女性がいて、

聞く人によっては矛盾しているように思われそうな言葉だけど、

簡単に言えば、「パートナーからされる行為(暴力やセックス)は嫌だけど、パートナーの言ってることは正しいと思う」と思いこんでいる人で、

もっと簡単に言えば、パートナーに洗脳されていた。

 

そして俺も親に洗脳されている。

(昔よりは減ってきたけど)俺の行動に対して批判したり命令したりすることが多かった。

自分のやりたいことがあまりできないように思えて、ストレスだった。

だから俺は親があんまり好きじゃない。

だけど、なぜか、親の批判や命令にそむくと、親の言う通りに行動しなかった申し訳なさから罪悪感を覚えて、

それがすごい洗脳されているように感じて、怖くて俺は成人したら家を飛び出してアパート暮らしを始めた。

でも結果は手遅れで、家を出た後もその罪悪感は残っていて、たまに実家に帰ってはその罪悪感を親孝行という形で償っている。

…この行動が本当に親孝行したい気持ちから来ているのか、偽善なのかが、今でもわかっていない。

 

結論を言うと、好きだから依存をするとは限らない。

依存しやすい人は、自分に自信が無い人が多くて、そんな自分の存在を認めてくれる人を探す行為な気がする。

好きは…前の日記でも言ったけど、やっぱりドキドキして苦しいことなんだよなぁ…俺の場合。

好きって感情は一生保証されなくて、嫌いにはならずともいずれ慣れて無くなる感情だと思っているし。

ただ、依存は抜け出しにくい、最悪病院行かないといけなかったりするし。

 

一番いいのは自分に自信を持つことだと思うけどね…

難しいんだよなぁこれが…

人生の墓場

"人生の墓場"と聞いて、何が思い浮かぶか?

当然ながら「結婚」でしょう。

調べると、

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と書いているが、俺は女性も人生の墓場だと思っている人だって多いと思う。

女性だって大切に育ててくれた親から離れて嫁がなければいけないケースや、

パートナー(夫)からDVされたり、パートナーの親と嫁姑問題起こしたり、血の繋がっていないパートナーの親の介護問題だってある。

男性が「結婚は人生の墓場」と言っていたのは昔の時代。

女性だって同じ苦しみを味わっている。

 

それに、男性だって結婚を人生の墓場だと思っていない人も多いと思う。

そもそも配偶者以外の異性と関わる機会が無い人や、

お金をたくさん使う必要がない人生を送っている人にとっては当てはまらない。

 

というか一夫一婦制の国しか言ってない気もする。

 

だからこの「結婚は人生の墓場」という言葉を完全に正しいとは思っていない。

だけど、間違っているとも思っていない。

今は結婚しないで生きる人たちが増えているみたいだし、

子どもも別に結婚しなくても育てることができる。

結婚はメリットよりもデメリットの方が多い。

ただし、その少ないメリットはどんなに多いデメリット達よりも大きい存在だとしたら…?

 

だから結婚は良くも悪くも頭のネジが1本以上とんでないといけない。

頭のいい人は結婚しないと聞く。

ただ結婚すれば看取ってくれる人が結婚しない人より多いかもしれない。

まぁ結婚しても孤独感に苛まれる人は多いとは思うけど。

 

今まで結婚して子孫を残して、自分たちの先祖から歴史を次の世代に受け継ぎ続けるこの風習。

もう少しなんとかならんのかなぁ?と。

忙しい時間こそが人間の救済時間?

先月の日記に「暇は害」というのを書いた。

その時に辿り着けなかった答えにようやく辿り着けた気がした。

 

人間は暇になるとネガティブなことを考えやすい、というか、ネガティブなことを考える隙ができてしまう。

ネガティブなことというのは有り体にいえば大きく3つあって、

・将来の不安(結婚できるか、今後苦労しないで生きられるか、など)

・現状の不安(自分の生活環境の人間関係、など)

・過去の不安(過去の失敗、など)

あんまり良い例えがたくさん出てこないけど。

 

で、結局そんなことを考える隙を与えないために、暇とは逆の、つまり忙しくなることで解決するということであり、

もっとストレートに言えば、忙しい時間こそが人間の救済時間なのだ…

もちろんただ忙しくても意味なくて、例えば社会人だったら貯金が全くできない上に常に働いている状態のブラック企業だったらむしろ逆効果だし、

お金に少しでも余裕がありつつ、可能であれば欲なく生きるのがベストなんだけど、もし無理ならその欲がなんとか叶えられてる状況があっての忙しさ、がベストだと思う。

 

 

「人生は死ぬまでの暇つぶし」みたいな言葉が有名で、

この言葉を聞く人によってはポジティブにもネガティブにも捉えれるみたいだけど、

今回の目線で見るなら、

「欲なくずっと忙しい状態で死ねるなら、それはむしろ人間にとって最高に幸せな死に方なのではないか?」

と、思う。

人間に生きる理由は正直ない。

世間は自殺を軽蔑するが、死ぬのは自由だ。

でも死ぬのは怖いから基本的にできない。

でも欲無く死ぬことができればなんの不安も持たないまま死ぬことができる、そうすれば当然死ぬときに後悔もない。

幸せはずっと続かない、消耗品だ。

食べてる時は幸せでも、食べ終わったら幸せは終わる。

寝ている時は幸せでも、起きてしばらくすれば幸せな気持ちもなくなっている。

セックスしている最中は幸せでも、終わればその幸せの感覚も徐々に消えていく。

家族や、好きな人と結婚することが幸せでも、一緒に生活していれば好きな人の嫌な部分も見えてしまうし、ずっと生活が続けば慣れて幸せがなくなっている。別に不幸になったわけでもないのに。

人間は同じ幸せを永遠に持つことができない。

つまり、人間は死ぬまで幸せに生きることはできない。

「大好きな恋人と一緒にいて今すごい幸せです」と言ってこの世に生きている人全員が別れなかったら俺が悪いと認めやってもいい。

 

話が少し脱線してしまったが…つまり何が言いたいかというと、

人は「幸せじゃないなら不幸かもしれない」と考えやすい、ということ。

幸せを維持するためには、自分の好きなことを永遠に飽きずにやり続けるしかない。

そしてそれはほとんどの人間はできない。

好きなことが終わった時に襲いかかってくる寂しさ、虚しさがある。

そこから連結して「自分は不幸かもしれない」という考えに自動的にたぐり寄せられてしまう。

 

上記で書いた悲しい課程が全てカットされた絶対時間こそが「忙しい時間」。

逆にその時間しかないのである…。

今抱えている不安をチラ見する必要がないくらいに完全に1つのことに没頭している時間。

別に仕事じゃなくてもいい、ゲームとかでもいい。

ただ社会人になったら(睡眠・食事・入浴などを除いた)プライベートの時間よりも仕事の時間の方が圧倒的に長い人もいる。

だから仕事以外の忙しさをみつけるよりも、仕事に没頭した方がいい。

そしてできることなら、自分にとって集中しやすい仕事。

どんなに忙しくても仕事に集中できないと、仕事中に不安が押し寄せる可能性があるからだ。

 

仮にもし、逆に仕事に集中できるようになったとして、

仕事が終わったらどうするか?

 

もう俺にはわかりません…

まじでもうどうしたらいいんだよ…

誰か俺に永遠の忙しさを与えてくれ…